毎月祈願にこられるおばあちゃんのお話。
2011.1.24 -[社務日誌]
今日は毎月病厄除けの病気平癒祈願でこられるおばあちゃんが参拝されました。
この方は満年齢で今年89歳を迎え、来年はいよいよ90歳となるそうです。
昨年の春頃から祈願にこられ、最初はご親友の病気平癒祈願の代理参拝であったのですが、徐々にご親友が良くなると共に、ご自身の健康を祈願されるようになりました。
ご老体から由来するものは、もちろんあるのでしょうが、様々な体の箇所が、毎月祈願するたびに良くなっていくそうです。
また、いつも祈祷の始まりより、深々と頭を下げ手を合わせて座っており、祝詞奏上以外の時に何か小声でつぶやくのが、祈祷中に背中を通して聞こえてきます。
その発する声は単純に想像すれば、「早く治りますように」との願いが唱えられているかと思いますが、耳を澄まして聞こえてくるのは「ありがとうございます」という言葉であります。
その感謝の祈願が毎月、廣田大御神様に強く届いているのだと思います。
病気が治るように祈願するわけですから至極当然「早く治りますように」と願うのは真っ当なことであり、当たり前の如く祝詞の主たる文面も治癒する願いが書かれております。
しかしながら、このおばあちゃんは毎月少しづつでも治ってゆく事の感謝を一心に捧げ、自らの願いの主張ではなく、恩恵を受けた気持ちを神様に届けているのであります。
このような気持ちこそ私達が今、忘れている心ではないでしょうか。
TPO、所かまわず、個性=自己主張と考え、自らの思考を最優先に出すのが大切だと言い張り、協調の中より生まれる恩恵の享受に感謝を忘れ淘汰する。それが結果的に自らの孤独を増長し、人との繋がりを求め彷徨ってしまう。
このおばあちゃんのように毎月祈願して少しずつでも治ることに感謝してゆく神恩感謝の念を、そのまま、社会の通念に還元してゆくことがこれからの時代に大切なことであります。
我々はかつて、村、町、あらゆる共同体にて老若男女揃い、地域にある神社のお祭に奉仕することで、社会における主従関係や、祭典の流れや作法を通して、人としての教養を学ぶことができ、最後の祭典の次第である、直会で飲食を分かつことで人間関係を円滑なものにしてきました。
その形態が希薄なものになってしまった時代だからこそ、今こうして人と人との関係で苦しむ事が異常に多くなり、社会の波に乗り切るのに個人の力のみになり、対抗しうることが出来なく、心が崩壊してゆくのだと思います。
だからこそ、このおばあちゃんのように毎月祈願することで感謝の念を届けたり、お祭等に奉仕をしていくことが重要であり大切であります。
祈願は1度したらそれっきりではなく、繰り返されることで、その御神力も段々に大きく賜わることができ、実際、廣田神社ではこうして毎月や定期的に祈願される方がいらっしゃいます。
今一度、心の清浄を保つために祈願にこられてはいかがでしょうか。
「ありがとうございます。」の言葉を添えて。