往古一条天皇の御代、長徳年間(996年)に左近衛中将より陸奥守に任ぜられた藤原実方朝臣(ふじわらさねかたあそん)が蝦夷鎮撫のため、外ヶ浜貝森村(現在の青森市)に「夷之社(えびすのやしろ)」を創建して陸奥国長久の平安を祈願したのに発祥します。そのため、御祭神も神功皇后が新羅御討伐の際に、皇軍を擁護したまわった天照大御神の荒御魂を主祭神として、これに国土経営の神様である、大国主命、事代主神並びに蛭子命を相殿したことは実方公の深慮から出たもので、後世その功績を思い、永くその英霊を慰めるべく一面和歌の神として廣田神社に配祀をしました。したがって公私の崇敬篤く、寛永二年(1625)津軽二代藩主信牧(のぶひら)公が青森町を開設する際には開港奉行であった森山弥七郎(もりやまやしちろう)に命じて、青森湊鎮護のために青森の産土神(守り神)として町の中心に遷座(せんざ)させました。
また、外ヶ浜総鎮守城とも称される青森御仮屋(おかりや)の(後の青森県庁)二代目城代(じょうだい)であり、弘前藩の家老でもあった進藤庄兵衛正次に指揮をさせて青森の開拓・発展を推し進めました。その結果、市場を開き、都市整備・開墾を行うなど数々の功業を重ねて現在の青森商業発展の礎を築きました。その偉業を称え、青森の人々は開拓の一大恩人として、庄兵衛が深く崇敬をしていた廣田神社へ“青森守護神”として配祀をしました。
また、藩公が青森に来られた際には親しく参拝され、天保五年(1834)には御紋章入りの幔幕(まんまく)を奉納の上、本殿、鳥居、神橋などの再建を仰せつかりました。しかし昭和20年(1945)の青森大空襲により御社殿をはじめ数多ある社宝をが無残にも灰燼(かいじん)に帰しましたが、昭和47年(1972)に氏子崇敬者の篤い敬神の心によって現在の御社殿を再建しました。
こうして青森の歴史の変遷と共に幾度か鎮座(ちんざ)する場所が変わりながらも、平成八年には御鎮座一千年記念大祭を盛大に斎行し現在にいたります。
八百万の神々の中で最高至上神とされ、皇室の御祖神(みおやのかみ)でもあり、日本国民の総御祖神(そうみおやのかみ)でもあります。また、荒御魂とは荒々しい側面をもった魂のことであり、それゆえに万物の願いに通じる中にも、特に厄除けや災難など内外に起こる様々なものを祓い除ける御神徳があるとされています。
天上の国、高天原(たかまがはら)に対し、葦原中国(あしはらのなかつくに)、日本の国土を代表する神様であります。島根県の出雲大社でも有名な通り、縁結びの神様として良縁・円満成就などの御神徳があります。また、医薬に通じ、生命の再生回復に強い神様とされ、病気・身体に関する神様でもあります。
大国主神の子供で、国譲りの時に大国主神の代弁をするという非常に重要な役目を果たしてたことから、託宣の神様とされております。また、漁業など海に関する神様でもあります。
イザナギとイザナミの御子として生まれますが、体が不自由なままであったために海に流されてしまいます。しかし、その後は立派な神様となり七福神で有名な恵比寿と習合し航海守護と共に商売繁盛・開運招福の神様として非常に有名です。
外ヶ浜経営の一大元勲たる藤原実方朝臣の神霊並びに青森の建設と発展に絶大なる貢献を致された青森開拓の一大恩人である青森城代二代目 進藤庄兵衛正次の神霊を祀る唯一の由緒深き神社です。
廣田神社では境内に鎮座する五社を全てお参りするのが正式な参拝となります。
また、五社参りを二十日間続けることによって百度参りの大願成就。
二百日間で千度参りの千願成就、そして二千日間続けると、万度参りで満願成就となり、心の願いが御神意に叶い成就されるといわれています。