東日本大震災へ。このただよへる国を修理り固め成すこと。
2011.4.9 -[社務日誌]
一週間ほど前に今の時期にお祭りって参加していいのですか。自粛した方がよいのですか。と質問されました。
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神社のお祭りというものはそもそも神事であって、”人←→人”ではなく”人←→神”という構図であり、神に仕え、祈念し、御神力を発揚してその恩頼(恵み)を賜るものであります。
それは五穀豊穣を願う祈年祭であっても、毎月の祈りを捧げる月次祭であっても、根本は国の隆昌と世界の共存共栄を祈り、世のため人のために奉仕して、神様の詔(みことのり・神様からのお言葉)を受けてこの世界が平和であるように一人一人が協力し合って国を造る願いが掛けられています。
ですから、神様の力を授かるため、神事というものはどのような事態であっても原則行わなければなりません。ただし、お祭りの歴史の中で、神事以外のものが付随した神様を伴わない”イベント”は自粛することはありえることなのでしょうが。
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しかしながら、大震災に際し最近常々感じることは奉仕する側が奉仕を受ける側と同じように疲弊しきってはいけないということです。
ようやく、ニュース等で過度な自粛はいかがなものか。という問いかけが始まっていますが、震災直後はともかく、ほぼ被害のない地域において一ヶ月経った今、私たちの過度の自粛によって本来は社会奉仕で還元してゆかなければならない会社・団体が、想像以上の二次災害(消費低迷)を受け、支援どころか自らの体力をなくしていることです。
国民一致で心より御礼を申さなければならない程暖かい支援を、援助を、世界中の国が日本に対して尽くして頂いておりますが、当たり前の如く、最後は我々日本人そのものが立ち上がり、再建していかなければなりません。
その中で、奉仕する側が疲弊しきっては本末転倒で、再建を掛ける力もなくなってしまっては、本当にこれから先、希望を見出す光がなくなってしまいます。
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私達の御祖神(みおやのかみ・先祖)が残してくださった日本人の心、規範である神典「古事記」の初めに『修理固成(しゅりこせい)の神勅(しんちょく・神様からのお言葉)』という有名なお話があります。
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「ここに天つ神諸の命もちて、伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の神に、『このただよへる国を修理(つく)り固(かた)め成(な)せ』と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。」
※書き下し文にて
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とあるように、神々が手をとってこの国を修理り固め成したように、私達の御祖神が初めに伝え、示しててくださったことは大きくは”国”をもって近くは”家族”をもって、助け合い生きてゆくことが大切であるということです。
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まさしく、今、我々が実践すべき大切なことではないでしょうか。神々がこのただよへる国々を造られたように、この大震災によって未曾有の災害を受け、国土的にも人心的にもただよへるこの日本を修理り固め成すのは一人一人が奉仕の心をもって手をとり、協力しあうことであります。
そのためには奉仕出来る側が疲弊しきっては修理り固め成せないのです。そして自粛という一種の悲しみの共有の形で心を分かち合えるのと同じように幸せもまた共有できるのであります。
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泣き顔からは悲しみを、笑顔からは幸せを。
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ですから、安産や初宮まいり等の祝い事を極端に自粛する必要ははなく、本気で震災のことを思うのであれば、これから育まれる生命が大きくなったときに、世のため人のために自らの命を尽くせるような人へ一生懸命愛育することが大切でありますし、結婚することも他人同士では出来なかったことが夫婦の契りを交わして家族になって初めて支援できることもあります。
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日本はこの人生の節目節目を神様へ感謝申し上げ、祈願することによって自らを成長させ、そのことによってその適齢に添った社会的役割を果たしてきました。
そのため、これらの人生儀礼を行うことで、はじめて奉仕に向う心構えができます。
同じように日常おこる様々な営みに関しても適度のモラルをもって、自粛するのではなく、普通に暮らしてゆけるこの生活の中で、何が自分に出来るのかを見つけて実践していくことが重要であり、自らが幸せに暮らしてゆけることが大前提に必要で、そこから私達は神々に祈りながら手をとりあって
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このただよへる国を修理り固め成すこと。
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を全うしてゆくことが復興へ続く光の道であります。