パラオ共和国にて神仏合同の慰霊祭を執り行いました。その1
2016.3.2 -[社務日誌]
平成28年2月28日から3月4日にかけてパラオ共和国にて神仏合同の慰霊祭を執り行いました。
南西諸島パラオ共和国はサイパン島とグアム島の下に位置し、500以上の島々から成り立っている島々で、南国の陽気な日差しと珊瑚礁に囲まれたロックアイランドは世界遺産でも有名な美しいサンゴや南では見られない魚達が沢山いる南国の諸島です。
しかし、そのパラオ共和国・ペリリュー島では昭和19年(1944)9月15日から11月25日まで日米が激戦となり、日本軍守備隊1,1000名が玉砕。いまだに遺骨が残されています。
またアンガウル島も同年9月17日から9月30日まで日米が戦闘し1,100名が玉砕。
唯一民間人を巻き込んだ激戦地であり、戦後日本の食糧難を救った燐鉱石の島でもあります。
戦後70年、今でも当時の激戦の跡が残り、戦車、大砲、沈没した戦闘機、船などが見られ、多くの戦死者を祀った碑や墓地がいたるところにあります。
中でも、第14師団ペリリュー島戦車隊には、青森県から数十名の小隊が配属し、9月16日に戦車「むつ」と共に玉砕。
その戦車が今でも地中に埋まり、訪れる人たちに当時を語りかけています。(第14師団ペリリュー島戦車隊遺族会青森分会事務局(慰霊祭案内役):横浜愼一より)
今回の慰霊祭にあたっては遺骨収集活動や戦跡の保全活動などをされている、第14師団ペリリュー島戦車隊遺族会青森分会事務局の横浜愼一さんとのご縁で実現しました。
昨年4月、戦後70年を迎えた節目に天皇陛下、皇后陛下が予てから憂いになられていた激戦地であるパラオ共和国へ慰霊のご訪問されたのがきっかけとなりました。
陛下がご訪問されるにあたり現地とも深いつながりがある横浜さんへ両国の国旗を持って奉迎したいというペリリュー島の州知事から依頼が寄せられ、日本において用意することになりました。
その活動をたまたま知り少しばかり協力させて頂いた折、4月の奉迎に持参する直前に両国の国旗並びペリリュー島の州旗を廣田神社にて御霊入れ並び安全祈願祭を執り行ったことから、一緒に同行してお手伝いさせて頂く予定でしたが現地の受け入れ体制がままならなかったため渡ることが叶いませんでした。
激戦の地であったことは知ってはいたものの青森県人も深くかかわり多くの命が散華していたのは知らず、パラオ共和国へ渡り現地にて慰霊祭を執り行いたい思いが日に日に強くなったところ、様々なご縁が重なり今回の慰霊祭を行うことができました。
今回の慰霊祭では数年前から親交がある昭和大仏で有名な青龍寺の住職さんも同行することになり、神仏合同を以て時間の許す限り多くの場所で慰霊を行うことになりました。
パラオ共和国へは成田空港からの直行便やグアム経由の行き方がありますが、今回は日程の関係上、青森空港から大韓航空で仁川国際空港を経由し、そこからパラオ共和国へと向かいました。
仁川国際空港までは上着を羽織らなければ非常に寒かったのですが、パラオ共和国のロマン・トゥメトゥール国際空港に着いた途端、真夜中にも関わらず南国特有の蒸し暑さが全身を覆いました。
パラオ共和国は年間の平均気温が27度という常夏で、スコールも多く発生し、出発した青森とは気温差が20度以上もありました。
ひとまず、翌日の日程確認を終えた後、一旦就寝して次の日の行程に備えました。
平成28年3月1日 二日目
朝食を済ませるとモーテルオーナーの日系パラオ人の金城さんから勇敢に戦った日本の女性の話など沢山のお話しをうかがいました。
1日目はロマン・トゥメトゥール国際空港横にカフェを営む野中さんと会社員の現地人に案内してもらい、アンガウル島の生還兵であ
バベルダオブ島はパラオ共和国で最も大きい島でマルキョク州という場所に首都がありますが、平成18年(2006)まではバベルダオブ島の下に位置する小さい島のコロール州が首都だったこともあり最も栄えているのはコロール島になります。
そのバベルダオブ島とコロール島は日本のODAで建設された友好の橋が掛けられ「ニューKB ブリッジ」という名で国民の生活に欠かせない道路となっています。
激戦の地となったのはペリリュー・アンガウル島のため両島に比べれば戦跡は少ないですが、それでも沢山のものが朽ちたまま残っていました。
まずは慰霊予定のガスパン州にある日本・パラオ戦没者納骨慰霊塔に向かいましたが、その道中に瑞穂小学校跡の門柱がありました。
そこからしばらく車を走らせると慰霊塔につきましたが、入口は木々で狭く分かりづらく一見すると見落としてしまうような場所でしたが、一歩入ると開けた景色が広がり眼前には真っ白にそびえ立つ慰霊塔が青空を突き上げていました。
同行した方の話だとこれまでは草が生い茂ったり管理が十分ではないような場所だったそうでしたが、天皇陛下がご訪問されてから非常にきれいに整備されてきたそうです。
近くに行くと独特な雰囲気が漂い、戦火の中を命懸けて戦う英霊達の姿が脳裏に浮かび上がりました。
ここでは略式ながら全員で線香を供え、神式、仏式と執り行い安らかに御霊を慰めました。
真っ青な青空にも関わらず慰霊を終えて車へ向かうとポツポツと雨が降り出しました。
次の場所へ向かう途中、日本の新宗教団が勝手に建てた慰霊碑が地元の方と問題になっているという話を聞き、現在は封鎖され、遠目から教えてくれました。
パイナップル加工工場であった朝日村鳳梨(ほうり)工場跡に着くと機械跡の歯車などが残っており、道路を挟んだ向かいはriverparkとなっており、そこには不時着したと思われる二式艦上偵察機(彗星)の残骸が置かれていました。
現在はriverparkという場所になっており、川岸に桟橋が設けられ地元民の憩いの場になっているそうですが、川とはいってもジャングルのような場所のため、ワニが生息し川に入るのは危険だそうです。
次のアルマテン海軍砲台に向かう前にパラオ共和国では環境保全や施設保全などのために州税を払い、パーミットと呼ばれる許可証が必要になるためアルモノグイ州政府に寄り申請をしました。
とてもカラフルな建物ですが、中に入ってみると州政府の施設とは思えないほど簡素で人も2、3人ほどしか働いていませんでしたが、屋上に登らせてもらうと非常にきれいな景色が広がっていました。
アルマテン海軍砲は小高い山にあり道が狭く荒れた道路でしたが、急こう配に対応できる車であれば登れる場所のため同行して下さった元特攻隊員の小玉さんは車に乗り、他は歩いて向かいました。
小高い山を登ると野原になっている平地が広がり、砲台が幾つか置かれていました。
大砲を隅々にみると明治36年に呉で作られたのが分かりましたが、100年以上も前のものとは思えないほどしっかりとした作りでした。
この大砲は狭水路を通る米軍を迎え撃つためにこの場所に設置されましたが、ペリリュー・アンガウル両島の激戦によりバベルダオブ島への侵攻は中止になり、ほとんど使われないまま朽ちてしまったそうです。
この大砲ではなかったのですが、似た大砲の訓練を受けたことがある小玉さんから運転の仕方やどれくらいの精度だったのか等、当時の様子をお話ししてくださいましたが、当時を知るその語り口に涙が込み上げそうになりました。
続いて昼食を十二湖のような透き通った綺麗な池の近くでとる予定でしたが途中の道路が工事中で行くことが出来なかったため、現地のガイド人の案内でガラスマオ・ドッグに向かうことになりました。
ここはかつてパラオの主要産業であったアルミニウムの原料であるボーキサイトと呼ばれる鉱石を採掘場から内地へ輸送する港だったそうで、その遺構が沢山あり波止場の真ん中には鉱石を山から港へ効率運ぶための大きなロープウェーのような建物がありました。
その建物は現在でも上ることができるため現地人に案内してもらいましたが、見渡す限りの海と青空と周辺の長閑な風景にしばし時間を忘れてしまいました。
昼食はその建物の横にある公園にあるような休憩所で、現地の漁師たちも休憩していました。
しばらく休憩した後はコロール島の日本人並びパラオ人共同墓地の慰霊に向かいましたが、道中、パラオ共和国バベルダブオ島マルキョク州にある大統領府の行政官舎に寄りました。
元々、コロール州が首都でしたが、平成18年(2006)10月7日に人口過密の解消や経済機能の分散など様々な理由によりマルキョク州へ遷都しました。
クリーム色した国会議事堂は、独立を果たし新たな道に進むにあたって文明や民主主義、自由を現したローマ様式の外観で、周辺には何も建築物がなく海を一望できる高台にあるめ青空のもと威風堂々とそびえ立っていました。
庭に入っていみると何とも言えない南洋のゆったりとした時間が流れ景色も良く、風が吹く穏やかな雰囲気でしばし休憩がてら散策しました。
その大統領府から少し離れたところにとても立派な朝鮮人の慰霊碑があり見学していみましたが、元特攻隊の小玉さん曰くその慰霊に書かれている内容はほとんどが作り話、または過剰に誇張されたもので、歴史を歪曲していることに憤慨されていました。
そこから墓地へ向かう前に日本統治時代に創建された官幣大社の南洋神社へお参りしました。
南洋神社はパラオのみならず南洋全体でも最も大きな規模を誇る神社で、神武天皇即位紀元2600年を記念して九万坪にも及ぶ境内地に天照大神と南洋の国魂が祀られました。
その後、昭和19年に大空襲によって焼き尽くされ御神体は朝日村へ仮宮として遷座されましたが、元の場所は放置されていたところ神社跡を購入した現地人が経緯を知ったところ再建され、現在は私邸の一角に大切に鎮められていました。
今回は住人に許可を頂き全員にて心静かに参拝させていただきました。
当時の参道跡や燈篭などが今でも幾つか残っていましたが、南洋一を誇った面影は残されてはいませんでした。
次に向かった墓地は日本人の墓地だけではなく、パラオ人や現在住んでいる日本人の墓地も一緒にあるそうで、幾つか建立している慰霊碑、墓石などを小玉さんに説明していただきました。
先ずは全員にて線香を供えて読経、そして神式での清祓いと略拝詞を奏上して慰霊しました。
終了するとシトシトと小ぶりの雨が降り始め、滴る木々と蒸れる土の匂いが何とも言えない空気を醸し出し、僅かな時間の間ですが各々に英霊の御霊とお話ししているようでした。
この墓地の入口には小玉さんと仲間とが建立した石碑が建っていましたが、これぐらいしか出来ないのが申し訳ないと語っていたのが印象的でした。
また、小玉さんから日本人墓地で慰霊される諸団体が自分達が慰霊したことを誇示するために、無断で墓地の屋根に横断幕などを張り、そのために使用したガムテープによってあちこちの箇所が剥がれてしまい、ペンキを塗らなければならない現状に苦言を述べていました。
続いてパラオ人の球場として使用されている旧「旭球場」へ向かいました。
現在もアサヒスタジアムとして親しまれ「yakyu」を競っている球場の裏には、「特二式内火艇」と呼ばれる日本軍の水陸両用車の戦車が無造作に置かれていました。
綺麗な状態で残されており、地元の人たちには違和感のないような空間になっていました。
球場を後にしたのちはアンガウル島激戦の生き残りである倉田洋二さんの住宅へ伺い当時の様子などのお話を聞きました。
倉田さんはパラオに暮らしているわけではないそうですが、一年の多くを滞在して、こうした戦跡の調査やご自身が生涯研究されている海洋調査などをしているそうです。
折角、お話しを伺える機会でした一つ一つの言葉の重みに胸が締め付けられ、あまり聞くことが出来ませんでしたが、とても気さくに接していただきました。
一日目はこれで終了となり、夕食には案内同行して下さった野中さんに来ていただき、倉田洋二さんも同席する予定でしたが、体調がすぐれずに叶いませんでした。
夕食は地元の日本食を扱うレストランに行きましたが、そこではパラオ共和国の伝統郷土料理のフルーツバットと呼ばれるコウモリのスープを頂きました。
コウモリのスープはとても良質な出汁が取れており、身はマグロをジャーキーにしたようなもので、羽の部分はトロトロとしたコラーゲンを食べているような味でした。
今日起きた様々な出来事を振り返りながら明日の慰霊祭に思いを馳せて夕食が終了しました。