パラオ共和国にて神仏合同の慰霊祭を執り行いました。その2
2016.3.3 -[社務日誌]
平成28年3月1日 三日目
三日目はパラオ歴史保全協会代表の小松隆文さんと合流して行動することになりました。
小松さんはおじいさんから戦中の体験談を聞いて興味を持って調べはじめたことからパラオ共和国に繋がり、台風で損傷してしまったアンガウル島の慰霊碑の補修の協力や戦時にまつわる伝承などの出版協力などをされている方です。
予定であれば朝からペリリュー島へ渡る予定でしたが、急きょ海の状況と船の都合により午後の便で向かうことになったため午前中はコロール島内を巡ることになりました。
そのため、モーテルの金城さんに車を借りて回ることになりました。
先ずはクルーザーや観光船が寄港するT字型の埠頭のためTドッグとよばれる場所へ向かいました。
ここに向かうまではバーやクラブなどがあり、街中からこのTドッグまではコロール島に住む若い人たちの遊び場にもなっているそうです。
船の近くには日本の統治時代に作られた屋外プールがあり魚が泳いでいましたが、現在でも現地の子供達の泳ぎ場所にもなっているそうです。
次にパラオ共和国の第3代大統領であったギラケル・エピソン氏を記念して建てられたエピソン・ミュージアムという博物館へ向かいました。
1階と地下1階が展示室、2階がお土産屋さんとなっており、スペインやドイツの植民地時代、日本の統治時代などの歴史が体系的に展示され、またパラオ共和国の伝統文化なども写真や模型を使って説明され、決して大きくはないもののパラオ共和国の歩んできた歴史がよくわかる展示になっていました。
次にパラオ国立博物館にて見学することになりました。
国立博物館となっていますが、先ほどのエピソンミュージアムとあまり規模的には変わらないものでしたが、バイと呼ばれる草葺きの三角屋根の伝統建築が再現されていたり、ここでも砲台があったり等また違った展示で楽しめました。
ここのカフェにて一旦休憩していたところ知らないパラオ人が歌いながら話しかけてきました。
最初は不審者かと思われましたが日本人をよく知っているそうで、次々に名前を言っていくと良く知っている名前が出てきたためしばらく話していましたが、この偶然の出会いが後に大発見となる布石となりました。
続いてロックアイランドと呼ばれるコロール島からペリリュー島に掛けて見える大小様々な島が連なり、日本統治時代にはパラオ松島と呼ばれる景色を見に行きましたが、これまで山中にあったホテル・ニッコー・パラオが老朽化で閉鎖してしまったため見える場所がなくなっていました。
通常であればツアーなどで飛行機をチャーターして見るのですが、時間がなかったため山中の道路の景色が眺める場所を見つけてそこから楽しみました。
一通り、コロール島をまわり最後に海上慰霊の際に献花する花を購入するため花屋さんに立ち寄りましたが、まさかの菊が売られており思わず店内で感嘆の声をあげてしまいました。
そうこうしているうちにペリリュー島へ渡る時間になったため、一旦HKモーテルに戻りNECOマリンの波止場へ向かいドルフィンベイリゾートのボートにて海を渡りました。
海上は雲が多いものの澄んだ青空が広がり、その色を受けた形容しがたい綺麗な海が広がっていました。
また大小様々な島を眺める景色は非常に素晴らしく、ロックアイランドを眺めながら40分程乗ってペリリュー島に到着しました。
その道中、波が穏やかなところに船を停めて青龍寺住職による海上慰霊を執り行いました。
青森県出身の約120名の戦歿者の名前が記された水溶性の紙を一枚一枚読経しながら海に流し、最後にそれぞれ購入した菊に祈りを込めて捧げました。
すると、日本軍が隊列を乱さずに歩るくがごとく流した供養の紙が一糸乱れず真っすぐに等間隔にコロール島に向かって流れていきました。
その光景に一同、ようやく戻ることが出来たのかもしれないと涙する思いで胸をなでおろしました。
ペリリュー島はコロール島よりも暑く、特にこの日は天気が良かったため一気に汗が吹き出だしました。
取りあえず港にて入島税を納めたのち、ペリリュー州知事のオギワル尊重へ挨拶に向かいましたが、残念ながら公務に重なってしまいお会いすることが出来ませんでした。
次に、日本から海外青年協力隊で先生としてボランティアをしている青年がいるペリリュー小学校へに赴き、事前にメールで連絡していた文具や教材を寄贈しました。
ペリリュー島は貧しい島のため様々なところから小学校へ教材が寄付されるそうなのですが、事前の密な連絡がないと必要なものがこなかったり、だぶってしまうこともあるそうで、事前に状況を伺い、何度も使用できるあぶら粘土やノートやマーカーを用意しました。
校長先生や担任の先生にも非常に喜んでもらうことが出来ました。
日が暮れる前に慰霊祭へ向かうため、宿泊先となるドルフィンベイリゾートに荷物を置いて支度することにしました。
白衣袴の装束に身を包み、ペリリュー島の共同墓地の一角に鎮まる日本人慰霊碑前にて神仏合同の慰霊祭を執り行いました。
直前までスコールが降っていましたが、準備し始めた頃から止みはじめ滞りなく奉仕し、同行している皆さんも線香をあげて拝礼をして思い思いに祈りを捧げました。
このペリリュー島はパラオ共和国の中でも特に戦火激しかった場所であちこちにその戦跡が見てとれます。
神事が終了した途端、また強い雨が降り出し慌てて車へと移りましたが、その天候に御霊が少しでも慰められた感謝の涙かなと話していました。
続く慰霊地は天皇陛下が御慰霊なされた場所でもある日本政府が建てた西太平洋戦没者の碑にて再び神仏合同慰霊祭が行われました。
この場所は島のはずれにありますが、平成25年にパラオ・フィリピン周辺を襲った台風で甚大な被害にあったそうで道路などが寸断されてしまうような状況であったところ、天皇陛下のご訪問をきっかけに整備がされ、今回慰霊することが叶いました。
日が落ち始める前ですが道中またスコールが降り出したため時間の再調整が検討されましたが、先ほどの慰霊祭同様に現地に到着して準備を始めると途端に雨が止み、眩しいほどの西日が降りかかりました。
この場所での慰霊祭が今回の主となる場所であったため依代の御幣を立て、位牌を安置してお供え物を並べて厳粛理に執り行いました。
はじめに神事が行われパラオ共和国で戦死した御英霊を慰め、青森県出身の戦歿者の名前を一人一人読み上げました。
すると日が更に強く射しはじめ海から大きな風が石碑の前を通り過ぎていきました。
次に仏事が行われ同じく御霊を慰めるお経が読み上げられたのに引き続き、全員で菊を玉串代わりに奉り線香を捧げて各々拝礼をしました。
そしてお供えされたお米、お塩、お水、お酒、捧げられた菊を正面の海に少しずつ全員で散供して御英霊に召し上がっていただきました。
全ての祭事が終了すると計ったように日がみるみると落ち始め石碑が夕日色に染められていました。
帰り始めるとまた強いスコールが降り出し急に止んだため、ふと窓からビーチを眺めると日本では見られないような色のはっきりとした虹が海に掛かっていました。
車内も一瞬静まり返り一同見とれていました。
その光景に様々な思いが駆け巡り目頭が熱くなりました。
ホテルに戻る帰り道にもたくさん戦跡があり、米軍との激戦地で有名なオレンジビーチに寄りました。
当時、幾多の戦場を制圧してきたことから米兵最強部隊といわれた第一海兵師団が全滅するという過去に例のない場所で、上陸戦終結後は埋葬作業が追い付かないほど遺骨が散乱としていたそうです。
現在はその面影は全くなく、さらさらとした砂浜にとても美しい海が眼前に広がっている風趣があるビーチでした。
そこからホテルの間には日本軍の九五式軽戦車が横たわっており、この戦車は天野戦車隊の「いずも」といわれているものでした。
日本軍の戦車には小隊長などに縁のある地名が呼び名として冠され、東奥日報にも掲載された青森県出身の田中小隊長が率いた戦車は「むつ」という名前でした。
錆びて朽ちてはいたものの今にも動き出しそうな雰囲気で、車体にはいくつもの被弾した弾痕が残されていました。
機動力は高く作戦指揮もよく練られたものであったそうですが、戦車といえども米軍の兵器の破壊力には遠く及ばず壊滅に追い込まれ、最近まで現存している戦車には遺骨が散乱していたそうです。
もうすでに暗くなりはじめたので二日目は終了し、ホテルに戻り夕食となりました。
夕食には文房具を寄贈した小学校へ青年海外協力隊の派遣できている酒井大輔さんを囲んでの食事となりました。
酒井さんからは実際に住んでみたからわかるパラオ共和国の事情などたくさんお話しを聞けました。
今日起きたことをまた色々振り返りながら遅くまで話が盛り上がりました。