全国唯一病厄除守護神 廣田神社

社務日誌

パラオ共和国にて神仏合同の慰霊祭を執り行いました。その3

2016.3.4 -[社務日誌

平成28年3月2日 四日目

3日目はアンガウル島にて慰霊祭となりますが、ペリリュー島からアンガウル島へ渡る船便は少ない上に海流が激しく欠航が多いため、直前まで渡れるかどうか不確定でした。

ホテル 朝

ホテル 朝

ただ、幸いなことに朝食の第一報で海が若干凪いているということで海を渡ることが可能となり、昼食後すぐにペリリュー島のサウスドッグへ向かいボードに乗って出発しました。

ペリリュー島

今回、船の操縦と島内の案内をしてくれたのはパラオの自然や戦跡の場所を熟知しているガドウィンさんで、宿泊先のドルフィンベイリゾートの社長でありながらも非常に明るく親しみやすく、道中、様々楽しませてくれました。

ガドウィンさんの話によると、ここ最近でこれだけ穏やかなのは珍しいそうで、とても運が良かったそうです。

ガドウィンさん

小一時間程、船を走らせると統治時代に整備された入り江のようなアンガウル港に着きました。

アンガウル港

アンガウル島は年間7万トンともいわれるリン鉱石の採掘で繁栄を極めた場所でもあったため、アンガウル港にはその名残りなのか機械などが朽ちてあり、他にも戦車のようなものも沢山ありました。

アンガウル港

上陸するとアンガウル島のレオン尊長が出迎えてくださり、挨拶を交わしました。

アンガウル港

早速、トラックの荷台に乗り込み、先ずはアンガウル島の日本人慰霊碑群に向かいました。

アンガウル島の日本人慰霊碑群

アンガウル島の日本人慰霊碑群

元々は全く別の場所にあったものが先の台風でこの慰霊碑も甚大な被害に合い、全て倒れたり壊れてしまったものを、州知事さんの計らいで所有している土地の一角を提供してくださり、民間の日本人ボランティアによって海が見渡せる現在地へ移動して修復されたそうです。

アンガウル島の日本人慰霊碑群

アンガウル島の日本人慰霊碑群

雨が降っていましたが、小雨となったためすぐ準備を整えて慰霊祭を執り行いました。

アンガウル島の日本人慰霊碑群

アンガウル島はペリリュー島の次に激戦地となった場所でありながら、交通の便からペリリュー島に比べて目を向けられることが少なく慰霊もあまり行なわれていないことから、今回の日程の中でも特に思い入れの強い場所の一つでした。

アンガウル島の日本人慰霊碑群

神事仏事を滞りなく執り納め、お線香を捧げて拝礼しました。

アンガウル島の日本人慰霊碑群

小雨降る島の独特の香りと確かに御霊がそばにいらっしゃる雰囲気に同行して参列した氏子さんが思わず涙を浮かべタバコに火をつけてお供えしていました。

亡くなられた方の多くは趣味や嗜好を十分に楽しむこともなく、お国のため、家族のために命を掛けてお守下さいました。

それに対し、御霊が慰められた今だからこそ、嗜好品を供えることで少しでも楽しんでもらいたいはなむけの気持ちがあったのかもしれません。

アンガウル島の日本人慰霊碑群

続いて尊重自宅付近のレストランだった休憩所で休んだ後、トラックの荷台に乗りながら、途中アンガウル飛行場の滑走路を通り抜けて慰霊碑群が本来あった場所へと向かいました。

アンガウル島 休憩所レストラン

アンガウル島 休憩所レストラン

アンガウル飛行場

台風によって元慰霊碑群に行く道も崩れてしまったり、なくなってしまったりしているため、ビーチから続く森を抜けて断崖絶壁の横を歩いて向かいました。

アンガウル島

2016-03-02-116k

アンガウル島

アンガウル島

アンガウル島

元々建立していた慰霊碑群の場所も現在の場所と同じく海が眼前に広がる場所で風光明媚なところでしたが、台座や基礎部分しか残らず、台風の力がこんなに恐ろしいものなのかと思うくらい悲惨な状況でした。

アンガウル島

アンガウル島

この場所の前にはアンガウル神社の付近に立っていたそうで平成22年に移動されたそうですが、結果、間もなくして残念ながら被害にあい、石碑の一部はまだ見つかっていないそうです。

アンガウル島

慰霊碑跡

続いてアメリカが戦闘49周年に建立した島民解放記念碑を視察しました。

アメリカが戦闘49周年に建立した島民解放記念碑

日本統治時代、日本人と島民とが暮らしていたころ大東亜戦争がはじまったため、日本人はその戦火から島民を守るために洞窟へ避難させて難を逃しました。

しかし玉砕してしまった元の村は壊滅されて行き場を失っている島民を見て、米軍は日本から解放したという詭弁を立ててこの記念碑を建立したそうです。

記念碑の近くには今も深い洞窟が眠っていました。

アメリカが戦闘49周年に建立した島民解放記念碑

そこから更に移動して那須岬に立っている米軍を慰霊するためのマリア像を遠目に眺めてアンガウル神社へ向かいました。

マリア像

アンガウル神社の側にはアンガウル大神宮が鎮座していたことから由来する大神宮海岸と呼ばれる美しい海岸が広がっていました。

大神宮海岸

大神宮海岸

アンガウル神社はアンガウル大神宮と称され、大正6年に創建された南洋諸島でも最も古い神社で島民の生活に深く関わり人々の拠り所として崇められていました。

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アンガウル神社

しかし、昭和19年に米軍の攻撃によって焼失し、昭和58年に再建されご祭神の天照大御神のほかに戦没者も現在は祀られているそうです。

アンガウル神社

再建されたアンガウル神社は密林の藪の中にひっそりと鎮まっていて、一見すると道路からは見逃してしまうような状態で神社の扁額が外れていたり、祠が欠けていたりしました。

アンガウル神社

アンガウル島の繁栄と英霊の安らかならんことを願い、祈りを捧げて拝礼しました。

アンガウル神社

次に森深く木々に覆われている山道を歩いてアンガウル島の繁栄を築いた一大産業である燐鉱貯蔵所を見ました。

燐鉱貯蔵所

燐鉱貯蔵所

その後、日本統治時代に建築された丹野灯台跡へと移動しました。

丹野灯台跡

灯台跡は山の中を突き進んでいくのですが、密林に覆われ整備もしっかりとなされている場所ではないため、草木をかき分けながら急な山道の石段を上っていきました。

丹野灯台跡

すると急に開けたところに出て、目の前には半壊したコンクリートむき出しの建物が建っていました。

丹野灯台跡

丹野灯台跡

大部分が壊れていましたが、さすが日本の建築したものというべきか、上に登ることが可能で屋上部分に立つと目の前に陸の先から海が一面に見える素晴らしい景色が見えました。

丹野灯台跡

また心地よい風が吹いているため何時間でもいられるような気持ちの良い場所でした。丹野灯台跡

ただ、残念ながら外国人によって落書きされている箇所が多数あり、こういった管理も非常に難しい問題でありながらどうにかしていかなければならないと感じさせられました。

丹野灯台跡

続いて燐鉱石の積出港であった場所に寄りましたが、港という割には断崖絶壁となっており、どのように積出していたのか想像がつきませんでした。

燐鉱石の積出港

燐鉱石の積出港

ペリリュー島に戻る時間も迫ってきたため、アンガウル港に向かう途中の小さなトーチカ(コンクリート等や地形を活かした陣地)を確認して、ドイツ植民地時代に燐鉱石を掘った跡地が雨水などが溜まり大きな池になっているという場所へ向かいました。

トーチカ

トーチカ

全てこれを掘ったのかと驚くほど広い大きな池でしたが、気象条件が合致し運がよければ十二湖の青池のような美しい水面になるそうすが残念ながら今回はその景色は見られませんでした。

燐鉱石発掘跡 池

最後は磯浜と呼ばれる小さくも綺麗なビーチに残るトーチカを見学しました。

磯浜

磯浜 トーチカ

来るたびに砂に埋もれていっているそうで、風化する年月の速さを感じると共に、あらゆる形でしっかりと残していかなければならないと思いました。

磯浜 トーチカ

磯浜

アンガウル港に戻り少し休憩した後、再びボートにてペリリュー島へと戻りました。

アンガウル港

戻る頃には海も荒れ始めてきたため、行きのような穏やかさから体が浮くような波のうねりをかき分けながら進んでいました。

アンガウル港

ペリリュー島に到着してホテルで昼食をとり、暫く休んでからペリリュー島内巡りに行きました。

ペリリュー島 港

ペリリュー島 港

また、昼食から昨年の天皇陛下ご訪問の際に奉迎の国旗を持って渡った第 14 師団ペリリ ュー戦車隊副隊長田中将一大尉の娘さんと同行した読売新聞大阪本社の斉藤孔成さんも合流しました。

昼食

先ずは米軍の第一海兵隊と激戦となったホワイトビーチへ向かいました。

ホワイトビーチ

ホワイトビーチ

ホワイトビーチはさほど広いビーチではなく、少し海岸を進むとサンゴが石化したものが散らばっていました。

ホワイトビーチ

そこから少し密林の中へ進んでいくとイシマツ陣地を通り、コンクリート製の珊瑚の岩で囲まれた珊瑚丘陣地跡が見えてきました。

イシマツ陣地

珊瑚丘陣地跡

珊瑚丘陣地跡

一見すると周りと溶け込んでいるため、天然の洞窟のようでしたが、近づくと確かに人工的に建造されたもので中は狭かったですがしっかりと空間ができていました。

珊瑚丘陣地跡

ホワイトビーチ

ホワイトビーチ

再び来た道を戻りオレンジビーチへ向かい、更にイワマツ陣地の九五式軽戦車が埋没しているところへ着きました。

オレンジビーチ

オレンジビーチ

イワマツ陣地

イワマツ陣地

イワマツ陣地

途中、部品や工具のようなものも所々に散らばっており、戦車はほとんどが埋まり車輪だけが僅かに見えている状態でした。

九五式軽戦車

九五式軽戦車

九五式軽戦車

続いて日本の海軍航空隊司令部に出発しました。

日本の海軍航空隊司令部

到着するとジャングルの一画に突然巨大な廃墟が出現しました。

日本の海軍航空隊司令部

経年劣化で朽ちているのは勿論ですが、えぐられているように壁や柱がないのは米軍によって爆弾などで集中砲火を受けた跡だそうです。

日本の海軍航空隊司令部

しかし、驚きなのはそのような攻撃を受けても今尚を崩れずに建っており、非常に頑丈にできているのか、床に多くの穴が開いていたものの、他のこうした施設よりも足場などが未だにしっかりしていました。

日本の海軍航空隊司令部

日本の海軍航空隊司令部

また、階段には滑らないようにゴム止めがついていた跡があったり、所々、精美につくってあったりしてる名残があり、如何に手の込んだ建物であったかがうかがいしれいました。

日本の海軍航空隊司令部

お風呂やトイレの跡もくっきりと残っており、つい最近の出来事のような錯覚にもなりました。

日本の海軍航空隊司令部

日本の海軍航空隊司令部

それでも話を聞くと年々朽ちており、昔に比べると周りの植物も大分浸食してきているそうでした。

日本の海軍航空隊司令部

また、建物のすぐ近くには防空壕があり、崩れることなく当時そのままに残されていました。

日本の海軍航空隊司令部

入ってみると意外と広くありましたが、何とも言えない雰囲気でした。

日本の海軍航空隊司令部

続いてそこから山を登り見晴らしの良い場所に鎮座しているペリリュー神社へ参拝に向かいました。

ペリリュー神社

ペリリュー神社

ペリリュー神社は戦前の日本統治時代に創建された神社ですが破壊されてしまったため、戦後昭和57年5月に青年神職南洋群島慰霊巡拝団によって天照大神と戦没者1万余名の護国の英霊をお祀りして再建されました。

ペリリュー神社

ペリリュー神社

現在の場所は広く綺麗に芝は刈られており、しっかりと整備されていて全て石で出来ていました。

ペリリュー神社

ペリリュー神社 鎮霊社

社殿や狛犬も大きくはないものの非常に精巧に作れていましたが、残念なことに社殿の扉が開いており、中に鎮まっている御神体らしく石板が真っ二つに割れていました。

ペリリュー神社

自然にはとても割れないような状態であったため、故意である可能性が非常に高く残念な気持ちとなりましたが、同行者一同しっかり手を合わせてパラオ共和国の繁栄と華と散った護国の英霊の安寧を祈りました。

ペリリュー神社

近くにはアメリカが建立した  がありました。

米軍の第一海兵師団の慰霊碑

米軍の第一海兵師団は世界最強の師団ともいわれるほど精鋭部隊で各国にて連戦恐れられていましたが、ペリリュー島の戦いで日本軍の善戦によって壊滅的な被害を受けました。

米軍の第一海兵師団の慰霊碑

そのためか慰霊碑は日本軍を大破させたガダルカナル島を向いて建っていました。

米軍の第一海兵師団の慰霊碑

次の場所に向かう途中、米軍のLVT(A)1水陸両用戦車アリゲーターを見ましたが、姿が非常にきれいに残っており、部品などもしっかりしているため今にも動き出しそうな雰囲気が出ていました。

米軍のLVT(A)1水陸両用戦車アリゲーター

ただ、この水陸両用車は日本軍によって多くが大破されその機能を果たすことはなかったそうですが、歩兵の盾となり重宝されたそうです。

米軍のLVT(A)1水陸両用戦車アリゲーター

とはいっても日本軍の戦車とみて比べるとその圧倒的な大きさには戦力の差を感じずにはいられませんでした。

続いて海軍短二十糎砲に向かいました。

海軍短二十糎砲

ここは海軍の船舶護衛用に製造された艦載砲だったそうですがその役割を変えて陸上に向けての防衛に代わっていったそうです。

海軍短二十糎砲

この砲も岩山の中にあるからか先ほどの戦車同様にしっかりと姿が残っており、今でも少し整備をすれば発射できるのではないかと思うような装いでした。

海軍短二十糎砲

砲台を少しまわるとちょっとした洞窟のような空間もありました。

海軍短二十糎砲

次にハネムーンビーチというかつてはパープルビーチと呼ばれたビーチへ到着しました。(もしかしたらスカーレットビーチかもしれません。)

ハネムーンビーチ

パラオ共和国の中でも美しいビーチのひとつとして数えられているそうですが、着いた時には石化した珊瑚が散らばり、岩肌が見え、サンドビーチとは言えませんでした。

ハネムーンビーチ

同行者によると、数年前に来たときは砂がサラサラしたビーチだったそうなので、この時だけ波に打ち寄せられたのか、少しずつ堆積していったのか驚いていました。

ハネムーンビーチ

それでも風光明媚な景色であることには変わらずとても気持ちの良いビーチでした。

ハネムーンビーチ

しばらくビーチ沿いに歩いていくと繁みの中にトーチカも見えました。

ハネムーンビーチ

ハネムーンビーチ トーチカ

ビーチを後にすると、戦跡ではないのですがスイミングホールと呼ばれる地面にぽっかり穴が開いて海水が流水している場所へ向かいました。

スイミングホール

ここはあまり観光では知られていない場所で、ジャングルの中にちょっとした広場がありその端にあるのですが、地元の子供達が飛び込んで遊んでいる場所だそうです。

いつもであれば澄んだきれいな色をしているそうなのですが、この日は海流の関係なのか、雨の関係なのか濁っており、下ままではっきりと見えませんでした。

ただ、そんなに深くはない場所だそうで同行者の一人が何回か飛び込んでいました。

スイミングホール

ホテルに帰る途中、最後に通称ゼロ戦と呼ばれる零式戦闘機の場所へ寄りました。

零式戦闘機

ジャングルの中を進んでいくと間もなくして戦闘機の上半分が見つかりました。

ただ、他の戦跡同様に数年前より朽ちていて以前確認した面影も大分変容しているようでした。

零式戦闘機

周りにはエンジンやプロペラなどの残骸も散逸していましたが、周辺をくまなく散策していると、前回来られた時には見られなかった部品などが見つかりました。

零式戦闘機

おそらく台風や雨の影響でこれまで表に出てこなかったものが露呈したのではないかと話していました。

零式戦闘機

零式戦闘機

早朝より慰霊巡り、戦跡巡りをしてホテルへ帰途する頃には美しい夕焼けが海一面を覆っていて、しばらく見とれるほどの素晴らしい情景でした。

夕食会

夕食では今日の濃い出来事を振り返りながら巡った各場所の往時の様子を想像して思いを馳せていました。

夕食会

夕食会

一日中駆け巡っていましたが、話は尽きず遅くまで歓談していました。