パラオ共和国にて神仏合同の慰霊祭を執り行いました。その4
2016.3.5 -[社務日誌]
平成28年3月3日 五日目
パラオ共和国での慰霊祭最終日となりました。
森から動物の声がさえずる気持ちの良い朝に疲れた体も癒されながら清々しく起きることができました。
朝食をいただいた後は早々と集合して戦跡巡りに繰り出しました。
最初に向かったのはホテルから近い壕になっている弾薬庫のような場所で奥に広々としていました。
中に入ると弾薬がいたるところに散らばっており、未処理を示すDENGER(危険)と書かれた赤いテープが沢山ありました。
また、随分カセットテープの磁気テープが落ちているなと思っていると、それも火薬が詰められた弾薬だそうで現在でも発火するものでした。
未だにこうした場所が少なからず島内にはあるそうで、まだまだ戦争の爪痕は完全には処理されていません。
次に向かったのは海軍通信壕という場所で日本軍の壕としては最大級の規模だそうです。
途中ジャングルの中を少し歩いていくのですが、最初は戦争の遺構かと思いましたが現在も使われているらしい大きな水道管が道に沿って備えられていました。
到着すると確かに入口も他の壕に比べると大きく、まるで映画に出てくるような天然の要塞の迫力がありました。
入口から急な斜面を降りていくと小さな穴があり、そこから更に階段になっているため降りていきました。
するとこれもまた、映画のようにライトにて前を照らした瞬間、すごい勢いで大量のコウモリが向かってきました。
コウモリ自体は攻撃性がないので除けていくのですが、あまりの大群で押し寄せるためどうしても体中に当たっていきました。
そこを抜けると大きく空間が広がり、迷路とはいきませんが何ヵ所か空間が広がっていました。
しばらく中を見学すると、お弁当箱などがあり所々に生活していた跡が見受けられました。
また、誰かが記した字などが生々しく残されており、その悲惨さが空気で感じ、慰霊をしました。
更に奥へと進み入ったところとは別の場所から斜面を登り再び地上へ戻りました。
広かったとはいえ、ここで待機したりほぼ暮らすような状態でいることを想像すると、とてもじゃないですが大変な苦労があったことを感じました。
壕を後にして今日の最大目的地であったペリリュー島で一番高いとされる大山の中川州男大佐自決の壕へ向かいました。
当時、圧倒的な戦力の米軍に対し、日本軍の現状を考慮して玉砕を図り早期終結を試みる計画が提案されたが、師団司令部の許可が下りず持久戦へ突入したことにより、二ヶ月もの長きに渡り本土進攻を食い止めることができました。
その際、水戸歩兵第二連隊長でありペリリュー島守備隊長であった中川大佐が指揮する守備隊が大いに善戦したそうです。
そしてついに11月24日、ついに司令部壕を包囲された中川大佐は有名な「サクラサクラ・・・」の電文を打って玉砕を知らせたのち村井少将と共に自決をして長く厳しいペリリュー島での戦いが終わりを迎えました。
戦後、米軍の手によって確認埋葬されたのち中川大佐の遺骨の返還が奥様にあったそうですが、「まだ多くの部下は故郷へ帰れずに居ります故、遠慮申し上げたい。すべての方が帰ってから中川は最後で構いません。」と話したとされているそうです。
そのような中川大佐が自決した場所は一般のガイドでは「鎮魂~終焉の地の碑」という場所を案内するそうですが、実際に自決した場所はその更にジャングルを入った奥にある場所で、断崖を登ったところの壕のような場所が実際に自決した場所だそうです。
そこに向かうため多少道になっているジャングルを進んでいくのですが、ある一定の間隔で赤と白に塗り分けられた杭が地面へ刺さっているのですが、それは白から内側は爆弾処理がされ、赤色から外側は未処理であることを示す物でした。
歩いていくと道のわきには弾薬や何かの欠片など至る所に散らばっていました。
そのような場所を30分から1時間ほどかけて歩いていくと断崖が目の前に現れ、そこを登った先が自決した場所でした。
断崖となっている岩肌をゆっくりと慎重に登っていくと岩場が割れたような場所へ出て、その両脇に小さな洞窟のような壕がありました。
周辺に降り立った瞬間、いきなり空気が重たくなりすぐに自決の場所だとわかりました。
怖いとは違う、あまりの異様な雰囲気に今回は自決した場所をむやみに侵さないよう、壕には入らずその入り口にて線香を立ててお祈りしました。
線香の煙はゆったりとした動きで周りに漂っていました。
帰りも断崖を慎重におりてきた道から戻り、途中ペリリュー守備隊の顕彰碑を通ってから違う道へ入り、先に述べた一般の方々が行く鎮魂~終焉の地の碑へも寄って行きました。
非常に険しく困難な道中だったため、一旦休憩する班とペリリュー島が一望できるアメリカが整備しているブラッディー・ノーズ・リッジ・モニュメントという展望台に登る班に分かれました。
簡素で長く急な階段を登っていくと360度見渡せる展望台につきました。
そこからはペリリュー島全てが見え、青い海と空が一面に広がるとても綺麗な景色の場所で、これまでの疲れも吹っ飛ぶくらい良い場所でした。
休憩組と合流してお昼にホテルへ向かう途中、天皇陛下皇后陛下が慰霊に向かわれた際にパラオ共和国に渡った、田中恭子さんの父である青森県出身のペリリュー島戦車隊副隊長である田中将一さんが亡くなられという戦車隊野営地へ向かいました。
これまでその場所が確定できていなかったそうですが、その天皇陛下皇后陛下の慰霊の際にペリリュー島を訪問して巡った際に見つかったそうです。
田中恭子さんがその野営地に着いた瞬間にお父様がいるのがわかったそうで、涙が溢れ、「やっと会えたね、やっと会えたね」と、その壕の中でずっと語りかけていたそうです。
そのような場所でしたのでここでも線香を焚いて手を合わせて祈りを捧げました。
ホテル前のビーチでは水位も上がり、無風だったため、海面が鏡のように反射して空が綺麗に浮かんでいました。
ゆったりと休憩しながら昼食を取り、ガイドなどで様々にお世話になったホテルのオーナー婦人(日本人)に挨拶してホテルを跡にしました。
本島のコロール島へ渡る前に、現在はペリリュー戦争博物館となっている日本軍の海軍弾薬庫へ向かいました。
今回、この慰霊祭を取りまとめて下さり、パラオ共和国とのご縁を紡いで頂いた第14師団ペリリュー島戦車隊遺族会青森分会事務局の横浜愼一さんが、この博物館へ当時日本が使用していた戦闘機のレプリカの模型を展示してもらう目的もあり本島のコロール島に渡る前に寄りました。
日本海軍の施設でしたが、残念ながら展示されているのはほとんどがアメリカのもので、日本の展示スペースはほんの僅かでした。
それでも今回のように様々な方が日本から展示するものを持参し、少しずつですが日本のスペースも広がっているそうです。
実は昨年、偶然にもパラオ共和国の国旗と同じ月を絵柄にしたお守りを奉製したため、少しでも大神様の恩頼が授かればと展示スペースに置かせていただきました。
無造作に展示されていますが、その展示されている様々なメッセージに同行した方で泣き崩れている方もいました。
日本の展示スペースには先の天皇陛下皇后陛下慰霊により戦友から送られた詞の短冊が掲げられていました。
どの詞も語っているのは天皇陛下皇后陛下が慰霊されたことでようやく御魂が慰められたという言葉でした。
思わずこの言葉に、涙を流すのを必死で堪えました。
いよいよコロール島へ戻る際もホテルのオーナーが船を操縦してくださいました。
実は今回の渡航の目的は、慰霊祭だけではなく、失われて見つかっていない日本戦車の探索という目的もありました。
ただ、そうなると2週間の滞在となり、休むのは難しいため私含め、ここで帰国する組と探索する組とで分かれました。
写真のような鮮やかな綺麗な海を渡り慰霊祭も終了しました。
今回の渡航は遊び一切なしのすべて慰霊祭、戦跡巡りであったため、最後だけは慰労を兼ねて夕日を見ながらパラオ共和国伝統のダンスを見ながら夕食にしました。
平成28年3月4日 六日目
まだ日が昇らない夜中にホテルを出発して空港へ向かい、韓国の仁川国際空港でトランジットして青森空港へ到着しました。
暑かったパラオ共和国とはかわり、まだまだ寒い青森に不思議な感覚を覚え、長いようで短かった慰霊祭も終わりを告げました。
今回の慰霊祭で感じたこと知ったことは言葉では語りつくせませんが、大自然溢れ世界遺産にも登録されている美しい海を目の前にして、命を賭したご先祖様の気持ちを現地で考えてみると、とてもじゃないですが私心なんかだけでは戦い抜くことはできなかったと思います。
それは国のため、家族のため、そして未来の私たちのためという大義がなければ決して華と散る覚悟は持てなかったと思いますし、戦い抜けなかったと思います。
もちろん、戦争を肯定するつもりは更々ありませんし、こんなことは二度としてはいけませんし、最も卑劣で愚かな行為だと思います。
しかしながら、今こうして私たちが好きなように生活し、好きなことをして好きなように食べ、好きなように生きていられるのはこのご先祖様たちが護国の英霊として私たちの未来を守ってくださったことに他ならないと思います。
そのようなことを考えると、昨今、所謂公人による靖国神社参拝が騒がれていますが、護国の英霊に手を合わせることと、戦争を肯定していることは全く別の問題であり、それをさも一緒に否定していることを見ると本当に腹立たしく思います。
先に述べた通り、戦争を肯定するつもりは更々ありませんし、こんなことは二度としてはいけませんし、最も卑劣で愚かな行為だと思います。
けれども、護国の英霊に手を合わせないということは私達のご先祖様に失礼であるばかりか、むしろ戦争するのを助長させる働きにもなると思っています。
今一度、歴史を振り返り、各県や各地域にある英霊へ手を合わせることが大事なのではないでしょうか。
そして、出来るならばしっかりと説明できるガイドのもと現地に赴き手を合わせるのも良いかと思います。
いずれにしましてもちょっとした出来事からここまで繋がり慰霊祭の斎行となった廣田大神様の御神縁はもとより青森県出身の英霊をはじ未だ眠るパラオ共和国の御英霊に感謝が絶えません。
一刻も早い遺骨の収集と戦跡の整備が行われますことをお祈り申し上げます。
講演会について
パラオ共和国であった戦争の惨劇、そして護国の英霊の顕彰を少しでも多くの方に知ってもらうためにいつでも講演を受付けています。
講演の時間や場所はいくらでも調整ができます。希望があれば気軽に廣田神社までごお問合せください。