中古三十六歌仙 藤原実方公【左近衛中将 藤原実方朝臣】
御神歌…なかめやる雲井の空はいかならん 今ぞ身にしむ外ヶ浜風
- 御神徳 芸道上達 良縁成就
- 生年不詳 – 長徳4年12月12日(西暦999年)
藤原一門の家柄
曽祖父に摂政関白の忠平、祖父は小一条大臣の師尹で、御堂関白の道長とは、又従兄弟の間柄であります。また、実父で侍従の定時は早くに亡くなり、叔父の権大納言済時の養子となり、生母は左大臣の源雅信の娘といわれ、藤原一門の中でも由緒ある家柄に生まれた美貌と風流とを兼ね備えた貴公子であります。
※写真:国立国会図書館蔵 栗原信充作 肖像集より 左近中将実方朝臣
和歌に優れた才をもつ
実方は天延三年(975)侍従に任ぜられ、9年後には左近少将に、更に7年を経て一条天皇の正暦2年(991)には右近中将、同じく5年(994)には左近衛中将に任ぜられました。特に、和歌に関してはすぐれた才能を発揮し、円融、花山両院より特に篤く慕われていました。
中でも有名な歌の物語で、【ある年の春、殿上人がそろって京の東山に花見にでかけたところ、突然のにわか雨に降られ大騒ぎになったが、ひとり実方は少しもあわてず木の下に身を寄せて、「桜狩雨は降りきぬ おなじくは濡るとも 花の影に隠れむ」と詠い、降り来る雨に漏れて装束をしぼった。】とのような物語があり、当時、この出来事は大変な評判となり人々は口々に実方の風流心をほめ称えたといいます。また、中古三十六歌仙という和歌の名手の一人としても選ばれ、今もなお親しまれている小倉百人一首の中にも和歌が残っており、私家集としても「実方朝臣集」というものが作られました。
陸奥守に任ぜられる
東山での花見の一件を聞いた、能書家で三蹟の一人である藤原行成は「歌は面白し、実方はをこ(馬鹿)なり」と申したところ、後日、その話を聞いた実方が怒りのあまり殿上に於いて、行成の冠を取り、庭へ投げ棄て去ってしまいました。その状況をご覧になった一条天皇は、「行成は召使うべき物」と蔵人頭に命じ、実方には「歌枕みてまゐれ」と、実質左遷のような形で、長徳元年(995年)9月27日に多くの人たちに別れを惜しまれながら、華やかな日々を過ごした京の都を後にして陸奥国の国司として赴任させられました。
しかしながら、赴任後の実方は陸奥国の国司として昼夜問わず精力的に奉仕し、武士や庶民からも絶大な信頼と尊敬を受けていました。そうして、陸奥守として各地を巡閲してまわった際に、この地にて蝦夷鎮護・陸奥国長久平和を願い「夷之社」(後の廣田神社)を創建しました。
※上記の陸奥守に左遷になった際の物語は幾つか伝わっている話の一つですので、政治的背景による左遷だったなどとする説もあります。
源氏物語主人公・光源氏のモデル
実方は稀代の貴公子で、容姿端麗であり、またその風流な振る舞いから、当時のアイドルともいうべき絶大な人気がありました。また、「枕草子」で有名な清少納言とも深い恋愛関係があったとされ、他にも数多くの女性と交流があったとされています。そのような人気からか、世界最古の長編小説ともいわれる「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人であったともいわれています。
西行法師と松尾芭蕉が墓前に参る
実方の亡き後もその和歌の名声は高く、長い年月の間にも色あせることはありませんでした。そのため、歌人としても有名な西行法師も文治2年(1186年)の秋に実方の墓(宮城県名取市・この地にて没する)に参り、霜枯れのすすきを眺め「朽ちもせぬ其の名ばかりを留めおきて、枯野すゝきかたみにぞ見る」と詠ったとされています。また “俳聖”と呼ばれている松尾芭蕉も実方の功績を称え慰めるため、元禄2年(1689年)5月に奥の細道をたずねた際に参ろうとしました。しかし雨で道が悪く、結局その希望は叶いませんでしたが「笠島はいずこ五月のぬかり道」と一句を手向けています。
実方雀(入内雀)伝説
亡くなった後も実方は様々な伝説となって語り継がれました。
“実方は京での失態を犯し左遷させられた怨みと故郷の京都への想いを募らせたまま遠き陸奥国にて亡くなってしまいました。しかし、しばらくすると京都には奇妙な噂が流れ始めます。毎朝、清涼殿へ1羽の雀が侵入して台盤(食事を盛る台)の飯を粒も残さず平らげてしまうというのです。それを目にした人々は、その姿からまるで京都に帰りたい実方の怨念が雀に化けてでたのではないかと噂をするようになりました。以来、内裏に侵入する雀ということで「入内雀」、または「実方雀」と呼ぶようになり、人々はこれを実方の怨霊の仕業といって大いに恐れたといいいます。”
※写真:国立国会図書館蔵 月岡芳年作 新形三十六怪撰 藤原実方の執心雀となるの図
実方公より御神歌を賜わる
現在、御神歌として【なかめやる雲井の空やいかならん今ぞ身にしむ外ヶ浜風】が伝わっています。これは、実方公が当社を創建した際に献歌したものといわれ、円扇形の板に人麻呂の画と、御神歌が描かれた直筆による御神宝であったとされています。他にも幾つか実方公が残したものがあったと伝えられていますが、残念ながら現在は先の青森大空襲か、それ以前の災害等によって残ってはいません。しかし、実方が残した歌は千年以上も変わらずに、今もこうして御神歌として伝わり受け継がれています。