青森城代二代目 進藤庄兵衛正次翁・庄兵衛夫人
- 御神徳 事業繁栄 福祉増進
- 1614年~1686年(慶長19年~貞享3年)
青森開拓の恩人の誕生
先祖は山形の最上公に仕え、出城を預かったりした勇将だとされています。そのため、庄兵衛は出羽国(現:山形県)にて父である甚右衛門の子息として生まれました。しかし最上家が没落したため、祖父である太郎左衛門正勝は浪人となり、子や孫等家族7人を連れて、最上公と結盟の間柄であった津軽公をたよりに一家は津軽外ヶ浜油川郷羽白村(現:青森市)に移住をしました。
稀代の出世・弘前藩家老へ
祖父である太郎左衛門正勝は寛永5年6月6日(1628)に津軽二代藩主信牧公に知行百石で召し抱えられ郡奉行を勤めていましたが病のため亡くなり、その当時27歳であった庄兵衛正次が家督を相続して寛永17年(1640)三代津軽藩主信義に召し出され二百石を賜りました。その後、正保4年(1647年)には足軽頭になり百石加増され都合三百石になり、いよいよ寛文12年(1672)12月1日には年寄役(家老職)を仰せつけられ「仏の弥右衛門(渡辺弥右衛門統好)鬼の庄兵衛、どっちつかずの次太夫(渡部次太夫正敏)」といわれ津軽三大名家老とされました。
国にも変えがたき臣となる
津軽三代藩主信義公のとき、弓足軽組頭の職であった庄兵衛は参勤交代のお供をしました。しかし、気性が荒く強情な上に酒乱の気味があるジョッパリ殿様の信義公は、江戸勤番中に、度々家来を手打ちしていました。あるとき、江戸の津軽屋敷に大名達を招いて酒盛りをしていたところ、次第に激しい口論になり、それを恐れた大名はこっそり裏口より帰りました。しかし、それを知った信義公は激怒し、刀を振り回しながら暴れ始め、そのあまりの激しさに周りの家臣や門番達も恐れ逃げてしまいました。しかし庄兵衛だけはその場に平伏して信義公の行く手を遮り、「私はお国もとより上り参りました進藤庄兵衛で御座います。恐れながら夜更けの外出はお止めください。」と申しました。ところが怒りがおさまらない信義公は庄兵衛の首に刀を突き引きました。しかし庄兵衛は血が出ているにも関わらず「何されようともここは、決して通すことはできません。殿に何かあっては御家の一大事です。」と決然と申し、動かないため、しばらくの間睨み付けていた信義公もいよいよ諦めて屋敷へと戻っていきました。そして、その夜、庄兵衛は止まらぬ首の血を拭いながらも朝まで門番を続けていました。当時4、5歳であった四代藩主信政が藩主として就いた際にこの事件を知り、この隠れた功績を大いに賞賛し庄兵衛を召し「国にも変えがたき臣である」と絶大な信頼を寄せ、以降重用するようになりました。
青森開港・商業都市の礎を築く
第一に青森の発展策として後の新町に市場を設けて商業を奨励し、外ヶ浜一円の商売は全て青森にて行うように決定し、商業の振興をはかりました。また、この周辺の田畑は水害が多く、被害が著しい地域でありました。そこで庄兵衛は後に「進藤堰」と呼ばれるようになる用水路を作り水利の不便を解消し、特に大野、荒川あたりを開墾して灌漑用水を豊富に普及して青森の農業振興にも寄与しました。
先進的福祉事業を遂げる
外ヶ浜総鎮守城ともいうべき青森御仮屋(陣屋とも称す)を築城した際に周囲に堀をつくりました。それを「盲堀」といいました。その当時、世間には盲人(目の不自由な方)は無用の人間であると、今とは比べようのない程の差別がありました。しかし庄兵衛はそのような人々、世間に対し「それは盲人になにもさせないからである。盲人ともいえども立派な人間であり、目が見えないだけで手も足もある。教える立場の人間が上手に指導すればなんら他の人々に負けることはない。」と申し、青森町はもとより、近隣の村町より盲人達を広く集め、一般従事者と変わらぬ賃金を支払い、庄兵衛が指揮を執り、仕事をさせた所、見事に完成させ、目が不自由でも立派に仕事ができると世間に示しました。その素晴らしい出来栄えから人々も心が変わり庄兵衛や盲人等の偉業を称え、この功績に対し、いつしか「盲堀」として人々の間で呼ばれるようになりました。
※当時における表記・呼称が「盲堀」のため「盲人」という表記にて説明しています。この事業における「盲堀」という呼称は、目の不自由な方が偉業を成した尊敬の念から人々が付けたもので差別用語ではありません。
青森守護の神様へ
庄兵衛は信仰も非常に篤く、延宝7年(1679)廣田神社の境内末社であった青森観音堂(観音神社ともいう)の再建にも尽力し、青森近郷町の信仰の場としたことで飛躍的に開拓も進みました。しかし、明治初年頃に神仏混淆の仕分けによって一緒にお祀りしていた庄兵衛夫妻の木像も撤去せざるを得なくなり、廣田神社宮司家に一時奉安されました。ところが、明治43年(1910)の青森大火によって夫婦の木像も焼失し、青森市民の心のよりどころが失われました。しかし、心痛する市民は大変多く、民衆の心のよりどころ復活のため、焼失より約50年後の青森市制施行60周年(1958)に市民等の奮起により進藤庄兵衛夫婦の木像を復活させ、その数々の功労から青森守護神としてお祀りするべく廣田神社へと配祀をしました。それ以来毎年7月18日に庄兵衛の徳を称えるお祭りとして“進藤庄兵衛正次翁頌徳祭”が行われています。なお、庄兵衛のみではなく夫婦として祀られることは庄兵衛が夫婦仲睦まじく各所にてその仲良き姿を見られていたからだといわれています。