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廣田神社について

病厄除け守護神『廣田神社』

青森開拓の一大恩人 青森城代二代目・進藤庄兵衛正次翁の神霊を祀る唯一の由緒ある神社です。

病厄除け
身に起こる一切の厄・病・災難などを祓い除くご祈祷です。ご祈祷を受けられた方には天明の大飢饉の際に徳川将軍より賜った疫災鎮定の白木造箱入(しらきづくりはこい)りのお神札(ふだ)を復元した廣田神社オリジナルの白木造箱入神札を授与いたします。
お守り
廣田神社で授与しているお守りの一部を紹介します。皆さまそれぞれのお願いごとにあった各種お守りがございますので廣田神社授与所にてお受けください。
藤原実方朝臣
外ヶ浜経営の一大元勲で廣田神社創建の恩人であります。有名な歌詠みの名手で中古三十六歌仙にも選ばれ、源氏物語の主人公「光源氏」のモデルの一人ともいわれる美貌と風流を兼ね備えた貴公子であります。
進藤庄兵衛正次
青森開拓の一大恩人で弘前藩初期名三家老の一人であり、青森城代二代目も勤めました。青森湊に商工を集め発展させ、土地の開拓を推し進めるなど、現在の青森の基礎・発展を築いた恩人であります。

由緒

写真:廣田神社外観往古一条天皇の御代、長徳年間(996年)に左近衛中将より陸奥守に任ぜられた藤原実方朝臣(ふじわらさねかたあそん)が蝦夷鎮撫のため、外ヶ浜貝森村(現在の青森市)に「夷之社(えびすのやしろ)」を創建して陸奥国長久の平安を祈願したのに発祥します。そのため、御祭神も神功皇后が新羅御討伐の際に、皇軍を擁護したまわった天照大御神の荒御魂を主祭神として、これに国土経営の神様である、大国主命、事代主神並びに蛭子命を相殿したことは実方公の深慮から出たもので、後世その功績を思い、永くその英霊を慰めるべく一面和歌の神として廣田神社に配祀をしました。したがって公私の崇敬篤く、寛永二年(1625)津軽二代藩主信牧(のぶひら)公が青森町を開設する際には開港奉行であった森山弥七郎(もりやまやしちろう)に命じて、青森湊鎮護のために青森の産土神(守り神)として町の中心に遷座(せんざ)させました。
 また、外ヶ浜総鎮守城とも称される青森御仮屋(おかりや)の(後の青森県庁)二代目城代(じょうだい)であり、弘前藩の家老でもあった進藤庄兵衛正次に指揮をさせて青森の開拓・発展を推し進めました。その結果、市場を開き、都市整備・開墾を行うなど数々の功業を重ねて現在の青森商業発展の礎を築きました。その偉業を称え、青森の人々は開拓の一大恩人として、庄兵衛が深く崇敬をしていた廣田神社へ“青森守護神”として配祀をしました。
 また、藩公が青森に来られた際には親しく参拝され、天保五年(1834)には御紋章入りの幔幕(まんまく)を奉納の上、本殿、鳥居、神橋などの再建を仰せつかりました。しかし昭和20年(1945)の青森大空襲により御社殿をはじめ数多ある社宝をが無残にも灰燼(かいじん)に帰しましたが、昭和47年(1972)に氏子崇敬者の篤い敬神の心によって現在の御社殿を再建しました。
 こうして青森の歴史の変遷と共に幾度か鎮座(ちんざ)する場所が変わりながらも、平成八年には御鎮座一千年記念大祭を盛大に斎行し現在にいたります。

御祭神(ごさいじん)

主祭神(しゅさいじん)

天照大御神 荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)

御神徳(ごしんとく)万物成就 厄災難除
八百万の神々の中で最高至上神とされ、皇室の御祖神(みおやのかみ)でもあり、日本国民の総御祖神(そうみおやのかみ)でもあります。また、荒御魂とは荒々しい側面をもった魂のことであり、それゆえに万物の願いに通じる中にも、特に厄除けや災難など内外に起こる様々なものを祓い除ける御神徳があるとされています。

相殿神(あいどののかみ)

大国主命(おおくにぬしのみこと)

御神徳 縁結び 病気平癒
天上の国、高天原(たかまがはら)に対し、葦原中国(あしはらのなかつくに)、日本の国土を代表する神様であります。島根県の出雲大社でも有名な通り、縁結びの神様として良縁・円満成就などの御神徳があります。また、医薬に通じ、生命の再生回復に強い神様とされ、病気・身体に関する神様でもあります。

事代主神(ことしろぬしのかみ)

御神徳 大漁満足 海難防止
大国主神の子供で、国譲りの時に大国主神の代弁をするという非常に重要な役目を果たしたことから、託宣の神様とされております。また漁業など海に関する神様でもあります。

蛭子命(ひるこのみこと・えびす)

御神徳 商売繁盛 開運招福
イザナギとイザナミの御子として生まれますが、体が不自由なままであったために海に流されてしまいます。しかし、その後は立派な神様となり七福神で有名な恵比寿と習合し航海守護と共に商売繁盛・開運招福の神様として非常に有名です。

配祀神(はいししん)

外ヶ浜経営の一大元勲たる藤原実方朝臣の神霊並びに青森の建設と発展に絶大なる貢献を致された青森開拓の一大恩人である青森城代二代目 進藤庄兵衛正次の神霊を祀る唯一の由緒深き神社です。

中古三十六歌仙 藤原実方公【左近衛中将 藤原実方朝臣】

御神歌…なかめやる雲井の空はいかならん 今ぞ身にしむ外ヶ浜風

  • 御神徳 芸道上達 良縁成就
  • 生年不詳 – 長徳4年12月12日(西暦999年)
藤原一門の家柄
写真:国立国会図書館蔵 栗原信充作 肖像集より 左近中将実方朝臣曽祖父に摂政関白の忠平、祖父は小一条大臣の師尹で、御堂関白の道長とは、又従兄弟の間柄であります。また、実父で侍従の定時は早くに亡くなり、叔父の権大納言済時の養子となり、生母は左大臣の源雅信の娘といわれ、藤原一門の中でも由緒ある家柄に生まれた美貌と風流とを兼ね備えた貴公子であります。
※写真:国立国会図書館蔵 栗原信充作 肖像集より 左近中将実方朝臣
和歌に優れた才をもつ
国立国会図書館蔵 栗原信充作 肖像集より 左近中将実方朝臣実方は天延三年(975)侍従に任ぜられ、9年後には左近少将に、更に7年を経て一条天皇の正暦2年(991)には右近中将、同じく5年(994)には左近衛中将に任ぜられました。特に、和歌に関してはすぐれた才能を発揮し、円融、花山両院より特に篤く慕われていました。
中でも有名な歌の物語で、【ある年の春、殿上人がそろって京の東山に花見にでかけたところ、突然のにわか雨に降られ大騒ぎになったが、ひとり実方は少しもあわてず木の下に身を寄せて、 「桜狩雨は降りきぬ おなじくは濡るとも 花の影に隠れむ」 と詠い、降り来る雨に漏れて装束をしぼった。】とのような物語があり、当時、この出来事は大変な評判となり人々は口々に実方の風流心をほめ称えたといいます。また、中古三十六歌仙という和歌の名手の一人としても選ばれ、今もなお親しまれている小倉百人一首の中にも和歌が残っており、私家集としても「実方朝臣集」というものが作られました。
陸奥守に任ぜられる
東山での花見の一件を聞いた、能書家で三蹟の一人である藤原行成は「歌は面白し、実方はをこ(馬鹿)なり」と申したところ、後日、その話を聞いた実方が怒りのあまり殿上に於いて、行成の冠を取り、庭へ投げ棄て去ってしまいました。その状況をご覧になった一条天皇は、「行成は召使うべき物」と蔵人頭に命じ、実方には「歌枕みてまゐれ」と、実質左遷のような形で、長徳元年(995年)9月27日に多くの人たちに別れを惜しまれながら、華やかな日々を過ごした京の都を後にして陸奥国の国司として赴任させられました。
しかしながら、赴任後の実方は陸奥国の国司として昼夜問わず精力的に奉仕し、武士や庶民からも絶大な信頼と尊敬を受けていました。そうして、陸奥守として各地を巡閲してまわった際に、この地にて蝦夷鎮護・陸奥国長久平和を願い「夷之社」(後の廣田神社)を創建しました。
※上記の陸奥守に左遷になった際の物語は幾つか伝わっている話の一つですので、政治的背景による左遷だったなどとする説などもあります。
源氏物語主人公・光源氏のモデル
実方は稀代の貴公子で、容姿端麗であり、またその風流な振る舞いから、当時のアイドルともいうべき絶大な人気がありました。また、「枕草子」で有名な清少納言とも深い恋愛関係があったとされ、他にも数多くの女性と交流があったとされています。そのような人気からか、世界最古の長編小説ともいわれる「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人であったともいわれています。
西行法師と松尾芭蕉が墓前に参る
実方の亡き後もその和歌の名声は高く、長い年月の間にも色あせることはありませんでした。そのため、歌人としても有名な西行法師も文治2年(1186年)の秋に実方の墓(宮城県名取市・この地にて没する)に参り、霜枯れのすすきを眺め「朽ちもせぬ其の名ばかりを留めおきて、枯野すゝきかたみにぞ見る」と詠ったとされています。また “俳聖”と呼ばれている松尾芭蕉も実方の功績を称え慰めるため、元禄2年(1689年)5月に奥の細道をたずねた際に参ろうとしました。しかし雨で道が悪く、結局その希望は叶いませんでしたが「笠島はいずこ五月のぬかり道」と一句を手向けています。
実方雀(入内雀)伝説
写真:国立国会図書館蔵 月岡芳年作 新形三十六怪撰 藤原実方の執心雀となるの図亡くなった後も実方は様々な伝説となって語り継がれました。
“実方は京での失態を犯し左遷させられた怨みと故郷の京都への想いを募らせたまま遠き陸奥国にて亡くなってしまいました。しかし、しばらくすると京都には奇妙な噂が流れ始めます。毎朝、清涼殿へ1羽の雀が侵入して台盤(食事を盛る台)の飯を粒も残さず平らげてしまうというのです。それを目にした人々は、その姿からまるで京都に帰りたい実方の怨念が雀に化けてでたのではないかと噂をするようになりました。以来、内裏に侵入する雀ということで「入内雀」、または「実方雀」と呼ぶようになり、人々はこれを実方の怨霊の仕業といって大いに恐れたといいいます。”
※写真:国立国会図書館蔵 月岡芳年作 新形三十六怪撰
    藤原実方の執心雀となるの図
実方公より御神歌を賜わる
現在、御神歌として【なかめやる雲井の空やいかならん今ぞ身にしむ外ヶ浜風】が伝わっています。これは、実方公が当社を創建した際に献歌したものといわれ、円扇形の板に人麻呂の画と、御神歌が描かれた直筆による御神宝であったとされています。他にも幾つか実方公が残したものがあったと伝えられていますが、残念ながら現在は先の青森大空襲か、それ以前の災害等によって残ってはいません。しかし、実方が残した歌は千年以上も変わらずに、今もこうして御神歌として伝わり受け継がれています。

青森城代二代目 進藤庄兵衛正次翁・庄兵衛夫人

  • 御神徳 事業繁栄 福祉増進
  • 1614年~1686年(慶長19年~貞享3年)
青森開拓の恩人の誕生
写真:300年祭にて15代目宮司並び10代当主進藤正武両夫妻先祖は山形の最上公に仕え、出城を預かったりした勇将だとされています。そのため、庄兵衛は出羽国(現:山形県)にて父である甚右衛門の子息として生まれました。しかし最上家が没落したため、祖父である太郎左衛門正勝は浪人となり、子や孫等家族7人を連れて、最上公と結盟の間柄であった津軽公をたよりに一家は津軽外ヶ浜油川郷羽白村(現:青森市)に移住をしました。
稀代の出世・弘前藩家老へ
祖父である太郎左衛門正勝は寛永5年6月6日(1628)に津軽二代藩主信牧公に知行百石で召し抱えられ郡奉行を勤めていましたが病のため亡くなり、その当時27歳であった庄兵衛正次が家督を相続して寛永17年(1640)三代津軽藩主信義に召し出され二百石を賜りました。その後、正保4年(1647年)には足軽軽頭になり百石加増され都合三百石になり、いよいよ寛文12年(1672)12月1日には年寄役(家老職)を仰せつけられ「仏の弥右衛門(渡辺弥右衛門統好)鬼の庄兵衛、どっちつかずの次太夫(渡部次太夫正敏)」といわれ津軽三大名家老とされました。
国にも変えがたき臣となる
写真:左より進藤庄兵衛正次翁講演要旨・進藤家の由緒と祖先の面影・進藤庄兵衛正次翁300年祭記念由来記津軽三代藩主信義公のとき、弓足軽組頭の職であった庄兵衛は参勤交代のお供をしました。しかし、気性が荒く強情な上に酒乱の気味があるジョッパリ殿様の信義公は、江戸勤番中に、度々家来を手打ちしていました。あるとき、江戸の津軽屋敷に大名達を招いて酒盛りをしていたところ、次第に激しい口論になり、それを恐れた大名はこっそり裏口より帰りました。しかし、それを知った信義公は激怒し、刀を振り回しながら暴れ始め、そのあまりの激しさに周りの家臣や門番達も恐れ逃げてしまいました。しかし庄兵衛だけはその場に平伏して信義公の行く手を遮り、「私はお国もとより上り参りました進藤庄兵衛で御座います。恐れながら夜更けの外出はお止めください。」と申しました。ところが怒りがおさまらない信義公は庄兵衛の首に刀を突き引きました。しかし庄兵衛は血が出ているにも関わらず「何されようともここは、決して通すことはできません。殿に何かあっては御家の一大事です。」と決然と申し、動かないため、しばらくの間睨み付けていた信義公もいよいよ諦めて屋敷へと戻っていきました。そして、その夜、庄兵衛は止まらぬ首の血を拭いながらも朝まで門番を続けていました。当時4、5歳であった四代藩主信政が藩主として就いた際にこの事件を知り、この隠れた功績を大いに賞賛し庄兵衛を召し「国にも変えがたき臣である」と絶大な信頼を寄せ、以降重用するようになりました。
青森開港・商業都市の礎を築く
第一に青森の発展策として後の新町に市場を設けて商業を奨励し、外ヶ浜一円の商売は全て青森にて行うように決定し、商業の振興をはかりました。また、この周辺の田畑は水害が多く、被害が著しい地域でありました。そこで庄兵衛は後に「進藤堰」と呼ばれるようになる用水路を作り水利の不便を解消し、特に大野、荒川あたりを開墾して灌漑用水を豊富に普及して青森の農業振興にも寄与しました。
先進的福祉事業を遂げる
写真:御仮屋跡地・現青森県庁内外ヶ浜総鎮守城ともいうべき青森御仮屋(陣屋とも称す)を築城した際に周囲に堀をつくりました。それを「盲堀」といいました。その当時、世間には盲人(目の不自由な方)は無用の人間であると、今とは比べようのない程の差別がありました。しかし庄兵衛はそのような人々、世間に対し「それは盲人になにもさせないからである。盲人ともいえども立派な人間であり、目が見えないだけで手も足もある。教える立場の人間が上手に指導すればなんら他の人々に負けることはない。」と申し、青森町はもとより、近隣の村町より盲人達を広く集め、一般従事者と変わらぬ賃金を支払い、庄兵衛が指揮を執り、仕事をさせた所、見事に完成させ、目が不自由でも立派に仕事ができると世間に示しました。その素晴らしい出来栄えから人々も心が変わり庄兵衛や盲人等の偉業を称え、この功績に対し、いつしか「盲堀」として人々の間で呼ばれるようになりました。
※当時における表記・呼称が「盲堀」のため「盲人」という表記にて説明しています。この事業における「盲堀」という呼称は、目の不自由な方が偉業を成した尊敬の念から人々が付けたもので差別用語ではありません。
青森守護の神様へ
写真:進藤庄兵衛正次翁夫婦の木像庄兵衛は信仰も非常に篤く、延宝7年(1679)廣田神社の境内末社であった青森観音堂(観音神社ともいう)の再建にも尽力し、青森近郷町の信仰の場としたことで飛躍的に開拓も進みました。しかし、明治初年頃に神仏混淆の仕分けによって一緒にお祀りしていた庄兵衛夫妻の木像も撤去せざるを得なくなり、廣田神社宮司家に一時奉安されました。ところが、明治43年(1910)の青森大火によって夫婦の木像も焼失し、青森市民の心のよりどころが失われました。しかし、心痛する市民は大変多く、民衆の心のよりどころ復活のため、焼失より約50年後の青森市制施行60周年(1958)に市民等の奮起により進藤庄兵衛夫婦の木像を復活させ、その数々の功労から青森守護神としてお祀りするべく廣田神社へと配祀をしました。それ以来毎年7月18日に庄兵衛の徳を称えるお祭りとして“進藤庄兵衛正次翁頌徳祭”が行われています。なお、庄兵衛のみではなく夫婦として祀られることは庄兵衛が夫婦仲睦まじく各所にてその仲良き姿を見られていたからだといわれています。